遊女の歴史「最古の和歌集 万葉集」

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遊女っていつからいるの?

大ブームの鬼滅の刃、遊郭編がテレビ放送中ですが、
子供に遊郭をどう教えるか?と話題になっているらしい。
子供に説明するなら、大人の男性が女性にお酒を注いでもらってお酒を飲むところ。かな
全部説明する必要は無いしね。 大人になってからの楽しみに取っておこうねぇ~(笑)

では、いつからあるの??って思いますよね。
奈良時代の『万葉集』に遊行女婦という言葉が出できます。
遊行女婦が地方に単身赴任した貴族の宴席に招かれて歌を詠んだり
踊りを踊って、もてなした事が書かれています。
遊ぶとは 祭祀に関わりがあった言葉だったそうで、 
一説には巫女から発生したと言われることにも納得しますね

「万葉集」で大伴旅人が遊行女婦との別れを詠っています。
息子の大伴家持も宴で遊行女婦との歌を書き留めているので、
高度な教養を持った女性たちであったみたいですね(宴のあと性的交渉を持つ場合もあり)
この時代は春を売ってもてなす遊女とは意味合いが違っていたみたですね。

児島(遊行女)と大伴旅人が別れを偲んで詠んだ歌

  • 6巻965ー児島 (遊行女婦)「おほならばかもかもせむを畏みと振りたき袖を忍びてあるかも」
    (普通の身分の方であったら袖を振ってお別れするものを恐れ多いので振りたい袖を我慢しています)
  • 6巻966ー児島 (遊行女婦)「大和道は雲隠りたりしかれども我が振る袖をなめしと思ふな」
    (大和路は雲に隠れて見えないでしょうが、袖を振るのを無礼だなんて思わないでください)
  • 6巻967ー大伴旅人 「大和道の吉備の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思ほえむかも」
    (大和路の吉備の児島(岡山県児島半島)を過ぎる時、筑紫の児島のことを思い出すだろう)
  • 6巻968ー大伴旅人 「ますらをと思へる我れや水茎の水城の上に涙拭はむ」
    (強くて立派な男だと思っていたけれど、別れがつらくて水城の上で涙を拭ってしまうのだろうか)

元号 令和の由来

因みに令和元号の元になった万葉集5巻「梅花歌三十二首ならびに序」を詠んだ「梅花の宴」は大伴旅人の邸宅でした。
初春の月にして、気淑く風らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす
*新春のき月、空気は美しく風は和み、梅は鏡の前で装うように白く咲き、
 蘭は身に帯びた香りのように香っている。

万葉集とは

万葉集とは7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された現存するわが国最古の歌集です。
全20巻からなり約4500首の歌が収められています
天皇から防人・一般庶民まで、さまざまな身分の人が詠んだ歌が収められています。


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この記事を書いた人

海外生活を経て改めて日本の文化に興味を持ち
遊郭建築や古い建築物を巡っています。
花街の歳時記を記録していきます。

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