平安時代の遊女の呼ばれかた
奈良時代の遊行女婦が平安時代になると遊女(あそび)と呼ばれるようになっていきます。
平安後期には学者・大江匡房が漢文体の短編「遊女記」で遊女の様を書き、
同時期に書いたと思われる姉妹編の傀儡子記(くいらいしのき)にも記載されています
国立公文書館デジタルアーカイブで原文が読めます。
その他の書物にも(あそび)の記述が出てきます。
「源氏物語」”澪標の巻”に「あそび共の集いまいれるも」
Wikipedia
「栄花物語」に「江口という所なりて、あそびども笠に月をいだし」
「散木集」に「あそびども数多もうで来て」
「更級日記」に「あそび三人」などがあり、歌舞を主にし「あそびめ」「あそびもの」とも言った
遊女記から読み解く
遊女記には淀川から分かれた神崎川(尼崎市神崎町付近)が京への交通の要所にあたり、
江口、神崎、蟹島などの港津が発達し遊里が繁栄していました。
遊女たちは通行する船に小舟で近づき客をとり、舟の数は水面が見えなくなるほどだったと
伝わっている。
神崎のことを上流の江口や対岸の蟹島と並ぶ「天下第一の楽地」と書いています。
法然上人と神崎遊女
法然上人と神崎遊女
建永2年(1207)法然上人が讃岐国に流される途中、神崎で5人の遊女が上人に身の罪業の深さを懺悔して入水したとの伝説があります。
遊女塚の墓碑は神崎川の川岸に近い場所にありましたが何度か移転して現在は梅ヶ枝公園にあります。
傀儡子記
「傀儡子記」には傀儡子の生活や風俗等を記述した書物で漢文体320文字程度の作品です。
傀儡子集団は定住せず家もない、水草を追って流れ歩き、北狄(蒙古人)の生活によく似ている。
弓や馬で狩猟をして、2本の剣をお手玉にしたり、七つの玉投げなどの芸、
「魚竜蔓延(魚龍曼延)の戯」といった変幻の戯芸、木の人形を舞わす芸などを行っていたとあります。
傀儡女(女性)は細く描いた眉、悲しんで泣いたように見える化粧、足が弱く歩きにくいふりをするために腰を曲げての歩行、虫歯が痛いような顔での作り笑い、朱と白粉の厚化粧などの様相で歌を歌い淫楽をして男を誘う。親や夫らが気にすることはなく、客から大金を得て高価な装身具を持ち、
誰の支配も受けず安楽に暮らしていると述べている。
東海道の美濃・三河・遠江の傀儡女が最も美しく、次いで山陽の播磨、山陰の但馬。
九州の傀儡女が最下等だと記しています。
「遊女」と「傀儡女」はどちらも売春を生業としていますが、区別して捉えていたとされています。
傀儡子らは猿楽に昇華し、操り人形は人形芝居になり、江戸時代には三味線と合体して人形浄瑠璃に発展し文楽へとなっていった。その他の芸は能楽や歌舞伎へと発展していきました。
傀儡師のからくり人形
愛知県半田市には江戸後期から続く傀儡師のからくり人形が載った山車(田中組神楽車)があり、
5月の亀崎潮干祭で演舞が披露されています。(ユネスコ無形文化遺産)
コメント